中東と日本、香りとの付き合い方の違い
香りは「特別な時間」のものだと思っていた
日本では、香りやお香はどこか「特別な時間」に結びついているものだと思っていた。
自分を労わるためのひととき。
気持ちを切り替えたいとき。
あるいは、お仏壇に手を合わせるような、静かで慎ましい時間。
生活の中に香りは確かに存在しているけれど、
それは日常そのものというより、
日常に区切りをつけるためのもの、という感覚が近いように思う。
香りは身近でありながら、少しだけ「特別」。
日本で育った私にとって、長いあいだそれは疑いようのない前提だった。
中東では、香りは生活の中に溶け込んでいる
一方で、中東地域の文化に触れる中で、
香りの扱われ方がまったく違うことに気づいた。
モールに行けば、当たり前のように香水やお香が並び、
スーク(市場)でも、香りは主役級の存在感を放っている。
行き交う人々は、それぞれがお香と香水を巧みに使い、
「自分の香り」を纏っている。
ホテルに入った瞬間、どこからともなく漂ってくる高級な香りにも、
「歓迎されている」という感覚を覚えることが多い。
香りの主張は日本の感覚からすると、かなりはっきりしている。
中東のお香に興味を持ち始めた頃から、
「この地域と日本では、香りに対する感覚そのものが違うのではないか」
そんな違和感が、ずっと心に残っていた。
日本での香りの役割は?
日本で、私たちはどんな場面で香りに触れているだろうか。
リフレッシュや趣味としての香り。
消臭や空間演出を目的とした香り。
そして、法事や仏事など、意味のある儀礼の場。
最近では、リードディフューザーやアロマキャンドルも一般的になり、
以前より香りは日常に入り込んできている。
それでも、家の中に「香りが常にある」状態を作る感覚は、
まだそれほど強くないように思う。
香水についても、日本では優しく控えめな香りが好まれる傾向があるとよく聞く。
主張しすぎず、周囲に溶け込む香り。
そこには、日本ならではの奥ゆかしさや、繊細な美意識が感じられる。
中東での香りは「日常そのもの」
中東地域では、お香や香りが使われる場面はとても幅広い。
金曜日の休日。
毎日の祈りの時間。
大切な会議や来客の前後。
家族や一族が集まる団らんのひととき。
中東に住む友人から、
「週に一度は必ず親族が集まって食事をする」と聞いたことがある。
そんな時間にも、香りは自然に寄り添っているという。
こうして見ていくと、
香りは「特別なときに使うもの」というより、
香りがある状態そのものが日常なのだと感じる。
なぜ、香りが日常に根づいているのか
中東地域で香りがこれほど身近な存在なのは、
香りが果たしてきた役割と深く関係しているように思う。
香りは、自分や家族のアイデンティティと結びついている。
香水やお香の香りを身に纏うことで、自分らしさを表現する。
朝にお香を焚いて家の空気を整えることは、
暮らしの一部として自然に行われてきた。
かつては、各家庭でお香が作られていた時代もあり、
香りは「その家らしさ」や「一族」を象徴するものでもあったのだと思う。
また、イスラム教では、預言者ムハンマドが
「良い香りで満たすこと」を奨励していたともいわれている。
祈りという日常の行為と、香りが結びついてきた背景も大きい。
さらに、結婚式や大切な会議の前にお香が焚かれることも多い。
その場にいる人が、同じ香りを共有する。
香りは、場の一体感や結びつきを生むツールでもあるのかもしれない。
香りが「ある状態」が普通の文化
こうして考えてみると、
中東では香りは特別な存在というより、
そこにあって当然のものなのだと感じる。
日本と中東での香りの役割の違いは、
文化そのものの違いだ。
そしてこの違いを意識することは、
日本で中東のお香を楽しむときに、とても大切になってくる。
日本で中東のお香を楽しむときの「違和感」
中東のお香に興味を持ったとき、
こんな感覚を抱く人は少なくないと思う。
「香りの主張が強く感じる。」
「煙や甘さに戸惑う。」
「焚き方が難しそうに思える。」
でも、それは香りが強すぎるからでも、
扱い方を間違えているからでもない。
香りが日常に「ある前提」の文化と、
そうではない文化の間に生まれる、自然な違和感なのだと思う。
日本では、香りは空間にそっと寄り添うものだ。
だからこそ、煙が立ち、存在感をもって広がる香りに、驚いてしまう。
一方で中東では、香りは自分や家族を表すものでもある。
煙が立つことは失敗ではなく、
目に見えない香りを、空間にしっかりと行き渡らせるための自然な現象だ。
違和感を抱いたままでいい
日本で中東のお香を楽しむとき、
無理に現地と同じように焚く必要はないと思う。
量を減らしたり、時間や場所を選んだり、
キャンドルを使うなど、生活に合わせた取り入れ方もあっていい。
ただ、その前に、
「香りがいつもそこにある文化がある」という前提を、
ほんの少しだけ思い出してもらえたら嬉しい。
違和感は、間違いではない。
それは、文化と文化の境界に立ったときに生まれる、
とても自然な感覚なのだから。

関連情報